建築を楽しく語り合う会
Sekisui-kan (1981), Seiichi Shirai
Sekisui-kan appears as though it is an ancient remains in the site next to the Toro, historical remains of rural village in the Period of Yayoi (400B.C.-300A.C.). The stone brick facade with easy grade roof covered with plants gives a gentle impression. Houses are right next to the Sekisui-kan, but the wall height is lowered as if it softly touches the neighbors.

When you go through the brick wall, there is a garden filled with perfectly trimmed trees glowing in the bright sun light. The sound of fountain invite you to another world, a complete world. Time stops and buoyant feeling of your body makes you feel like you are in a dream.

As you enter the Sekisui-kan, the brightness of the garden fades away and you enter an intimate calm space. Cave like museum is articulated into small exhibition spaces. Each space has a slightly different tone. Elements structuring the space are somewhat different in each space: ceiling, wall, pillar, volume, floor level, and etc. These spaces allow you to sense your pace. Although the museum plan is a simple U shaped plan around the fountain, as you walk forward you lose the sense of direction and unknowingly devoting to the feeling of going deeper into the rich cave, Shirai’s world.

Exiting from the Museum shop, there is a recess space before returning to the garden. As you wait for the time to go by, the garden seems much closer and familiar. It was a very unique experience filled with satisfaction and richness.

What is Shirai’s world in transition from Modernism to Post-modernism?
Yet to discover.

Fumie Yamanaka
楽語会とレーモンドと村野藤吾
建築楽語会は、2009年度に入って、かなり大きく変わったと思う。一つには3年生になって、具体的に建築空間の構成方法や素材の使い方を考えるようになったこと、さらには、優れた建築空間ほど設計者の考えや感じ方をストレートに反映することを体験的に理解するに至ったことだ。■ただ明るく清潔で、使い易くて、分かり易ければよいと考えなくなった背景には、彼らがとくに重点的に白井晟一に取り組んできたことが大きく影響しているように思われる。時には暗く、重たく、手ごわく、分かりにくくもある白井建築が、その内部を体験すると実に心地よく、深く心に訴えかけるものであることを彼らは知ったのである。■楽語会は、だいたい1ヵ月半ごとに、彼ら8人と私と助教の山中さんの、合計10人が集まって例会を開くが、そのとき彼らは、各建築作品について、自分の気に入った写真を1枚だけ使ってわれわれの前で建築批評を行う。あれもこれもではなく、自分で撮った一枚の写真だ。驚くのは、彼らの写真が実にうまく空間の闇の部分を捉えるようになったことである。最初の頃は、特徴的な外観や部分形態を示す写真が多かったが、最近は空間の明暗を捉えた写真になってきた。一枚の写真によって、その建築が何であり設計者がその建築に何を求めたかを示そうとして、彼らは自然に内部空間の光と闇に向かっていったのである。これは誰に教えられたというのでもなく、伝えたいものを目指した結果、おのずから辿った道である。そこがすごく面白くもあり、彼らがいかに真剣に取り組んでいるかを示す結果になっている。■今回は、アントニン・レーモンドと村野藤吾を取り上げて、(2作品ずつを)見学と批評の対象にしている。レーモンドは、構造(システム)と空間表現が一つになった建築家である。妹島や西沢のいう「構造=空間」の建築家である。しかも、木造であろうがRCであろうが、構造をシステムとして捉えて、反復を空間表現に使う。さらに言えば、レーモンドの場合、システムが空間表現として綺麗に納まれば良いというわけではなく、重要なのは光と闇の扱いであった。光と闇の効果を求めて構造を極限まで彫琢したゴシック聖堂の精神を、レーモンド建築は再現するかのようだ。■それに対して、村野の建築は、もっと身体的に多元的に、その場所、場所に反応してゆく。敷地の地勢に呼応し、空気の流れに反応する。彼の建築は、全体が宇宙のようであり生物のようでもあって、その内部を歩けば胎内空間を巡っている感じがする。白井建築にも胎内を巡る感じがあるが、この点では村野建築が群を抜く。村野の建築は外皮と内皮で成立する。皮膚の建築である。内部空間はその内皮によって包まれ、外部は外部で、その外皮によって包まれる。彼の建築では、この内皮と外皮とがどういう関係になっているかが見られる開口部(窓、出入り口)が一つの見所にもなる。■楽語会の8人は、近代建築のどの4作品を選ぶかについても、ずいぶん時間をかけて議論しているが、その選択も徐々に堂に入ってきた気配がある。
高崎哲学堂
住宅を見るのは2回目だ。はじめは歴史のある日本住宅といった感じがした。

窓がたくさんある。風が気持ちよく通りぬけそうだ。障子というのは不思議で、窓が一面にあっても見えすぎるという不安感は持たせず、でも中に入ってみるとちょうどいい明るさ。窓があくと想像していたけど、それよりも良い世界が広がる。カーテンとはちがう、障子の良さがあるのだと思う。

軒が少し重たいのだが、玄関前の広場では軒のつくる暗さとガラスの屋根から差し込む明るさが気持ちよかった。ここでは暗いけど明るいといった自然光をたびたび感じた。
日生劇場
劇場に入った途端、異様な感覚が身体を包み込んだ。
はじめ、それは劇場全体が醸し出す深海のような異様さによるものかと思われた。
しかし、3階席を舞台方向に進むにつれてそれは劇場全体が持つ異様さだけではないことに気づかされた。
3階席の先端に進むとよくわかるのだが、ホールを構成する椅子、手摺り、階段のスケールが私たちが普段感じている身体的スケールよりも若干スケールダウンされているのだ。
その若干のスケールダウンが私たちにある種の気持ち悪さ、居心地の悪さを感じさせた。
しかし、その気持ちとは裏腹に、実際に椅子に座ってみるとそれは思いのほか身体にフィットし、また下に落ちてしまうのではないかとさえ思わされたとても低い手摺りは、舞台鑑賞の邪魔にならないような低さ、薄さを有していた。
これらのディティールに、はじめは劇場全体の圧倒的な存在感に圧倒され気づかない。
しかし、劇場内を進むにつれ私たちはそれに気づかされる。
それらのディティールには、村野藤吾氏なりの劇場という空間に対する美学のようなものが確かに感じられた。
小山敬三美術館
外観の厚ぼったく小ぢんまりした佇まいからは想像できない様な空間の広がりがある。
その中でもこの空間を二つに区切る間仕切りは曲面の持つ連続性に対して一突きすることでボリュームを彩る。村野藤吾は「様式の上にあれ」と唱い、様式の柵に捕われないことを説いたが、この言葉の根底に日本的、西洋的といったテーマは目覚めてはいないが眠っていると感じる。間仕切り上部の木枠はどこか日本的な暖かさを感じるし、アーチは西洋的なテーマを間接的にではあるが含んでいると思う。
この厚ぼったくもあり、どこか洗練されたイメージは小山敬三の絵画と合っていて面白い。